マルク・シャガールの芸術において、インスピレーションの源のひとつとなったのがユダヤの思想である。敬虔なユダヤ教の家庭に生まれ育ち、「幼い頃から、私は聖書の虜になってきた。私はつねに、聖書が古今を通じて詩想の最大の源泉であると思われてきた」と語った画家にとって、ユダヤの歴史はアイデンティティとして根付き、ユダヤの文化から生まれた神秘と恩寵のモチーフで画面を彩った。 今回出品作《La traversée de la mer rouge(開かれた紅海)》は、ユダヤ教の聖典である旧約聖書の一節、預言者モーセがユダヤ人を率いてエジプトから脱出する「出エジプト記」の一場面を描く。 古代エジプトにて、虐げられていたユダヤ人を救う使命を神から受けたモーセは、民族を連れて約束の地(「乳と蜜の流れる地」と言われる現在のパレスチナ周辺)へと向かう。それを知ったエジプトの王は軍隊を差し向け、ユダヤ人たちを紅海に追い詰めると、モーセは神の力で海を割って乾いた海底を民に渡らせ、その後を追ってきたエジプト軍を海に沈めた。 ユダヤ教以外でもよく知られるこのエピソードを描いた本作では、画面左下に光を放つモーセが立ち、その背後に海を渡る人々の姿が表される。そして彼らの頭上には白い天使が浮かび、聖書には記述のない天使の登場は、神の御業と民の守護を象徴するだろう。 本作を制作した翌年、シャガールは旧約聖書の版画集『聖書』を出版しており、そのなかで本作と同じ主題が本作とほぼ同じ構図で描かれている。 この版画集は、1930年に美術商ヴォラールの依頼ではじめられたもので、シャガールも聖書の舞台となるパレスチナやエジプトを訪ねて取材するなど並々ならぬ熱意をもったが、ヴォラールの急死や第二次大戦のために中断を余儀なくされた。そして戦後、出版者テリアードの協力によって発表すると、以降聖書はシャガールが終生追求する最も重要なテーマとなった。 またフランス・ポンピドゥーセンターには本作と同主題・同構図、さらには同年制作の縦2メートル横1.4メートル超の大作が所蔵されており、この奇跡の場面が画家の心に深く刻まれたイメージであったことが偲ばれる。そこには、民を救うのみならず、ユダヤ教の重要な戒律である「十戒」を神より授かったモーセへの敬意や、もしくは画家自身のユダヤ名Moishe(モイシェ)の由来となった偉人への親近感もあったのかもしれない。 本作は、モノクロ版画の『聖書』にはない色彩画家シャガールの本領と、ポンピドゥーセンターの大画面では表しきれないインスピレーションの勢いを見ることができ、小品ながらも画家が夢想するスペクタクルな物語を味わうことができる1作である。
¥12000000-20000000
LOT 67
Marc Chagall (マルク・シャガール)〈1887-1985〉
La traversée de la mer rouge(開かれた紅海)
24.0×19.2cm
板・油彩・額装
右下にスタンプサイン
1955年
COMITÉ MARC CHAGALL 鑑定証書付
マルク・シャガールの芸術において、インスピレーションの源のひとつとなったのがユダヤの思想である。敬虔なユダヤ教の家庭に生まれ育ち、「幼い頃から、私は聖書の虜になってきた。私はつねに、聖書が古今を通じて詩想の最大の源泉であると思われてきた」と語った画家にとって、ユダヤの歴史はアイデンティティとして根付き、ユダヤの文化から生まれた神秘と恩寵のモチーフで画面を彩った。 今回出品作《La traversée de la mer rouge(開かれた紅海)》は、ユダヤ教の聖典である旧約聖書の一節、預言者モーセがユダヤ人を率いてエジプトから脱出する「出エジプト記」の一場面を描く。 古代エジプトにて、虐げられていたユダヤ人を救う使命を神から受けたモーセは、民族を連れて約束の地(「乳と蜜の流れる地」と言われる現在のパレスチナ周辺)へと向かう。それを知ったエジプトの王は軍隊を差し向け、ユダヤ人たちを紅海に追い詰めると、モーセは神の力で海を割って乾いた海底を民に渡らせ、その後を追ってきたエジプト軍を海に沈めた。 ユダヤ教以外でもよく知られるこのエピソードを描いた本作では、画面左下に光を放つモーセが立ち、その背後に海を渡る人々の姿が表される。そして彼らの頭上には白い天使が浮かび、聖書には記述のない天使の登場は、神の御業と民の守護を象徴するだろう。 本作を制作した翌年、シャガールは旧約聖書の版画集『聖書』を出版しており、そのなかで本作と同じ主題が本作とほぼ同じ構図で描かれている。 この版画集は、1930年に美術商ヴォラールの依頼ではじめられたもので、シャガールも聖書の舞台となるパレスチナやエジプトを訪ねて取材するなど並々ならぬ熱意をもったが、ヴォラールの急死や第二次大戦のために中断を余儀なくされた。そして戦後、出版者テリアードの協力によって発表すると、以降聖書はシャガールが終生追求する最も重要なテーマとなった。 またフランス・ポンピドゥーセンターには本作と同主題・同構図、さらには同年制作の縦2メートル横1.4メートル超の大作が所蔵されており、この奇跡の場面が画家の心に深く刻まれたイメージであったことが偲ばれる。そこには、民を救うのみならず、ユダヤ教の重要な戒律である「十戒」を神より授かったモーセへの敬意や、もしくは画家自身のユダヤ名Moishe(モイシェ)の由来となった偉人への親近感もあったのかもしれない。 本作は、モノクロ版画の『聖書』にはない色彩画家シャガールの本領と、ポンピドゥーセンターの大画面では表しきれないインスピレーションの勢いを見ることができ、小品ながらも画家が夢想するスペクタクルな物語を味わうことができる1作である。