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LOT 145
松村 呉春
蕪村写山水図六曲一双屏風
(各)151.0×349.6cm
紙本彩色・六曲一双屏風
(右)甲辰夏日写呉春 天明四年 (1784), (左)写於三菓堂呉春,
甲辰夏日
[literature]
『下京平野氏・某氏其他所蔵品入札』 (大正7年5月17日 京都美術倶楽部) 目録掲載
右隻に「甲辰夏日写呉春」、左隻に「写於三菓堂呉春」と款する六曲一双の屏風。甲辰の年記により天明4年(1784)、呉春33歳の作とわかる。左隻には険しい巌山にかこまれた山道と旅人の姿が、右隻には山あいの閑静な集落にあそぶ文人らの様子が描かれる。
呉春(1752-1811 宝暦二-文化八)は京都で金座の役人を代々継ぐ裕福な家に生まれた。本姓は松村。20歳前後に与謝蕪村の門となり、月渓と号して文人画と俳諧を学ぶ。のち円山応挙との交流を通じて文人画の味わいを残しつつ写実的な作風へと転じ、その軽妙酒脱な画風は京都の民衆におおいに受け入れられ、「四条派」という一派をなした。
本作が描かれる3年前の天明元年、30歳の呉春(松村月渓)は愛妻と父を相次いで亡くす。翌年、大坂の池田に転居したのは、師の蕪村が傷心の呉春を気遣って勧めたためと伝わる。「呉服(くれは)の里」と呼ばれた池田の古称にちなみ「呉春」と改名したのもこの時である。池田時代の呉春の生活を支えたのは蕪村に俳句を学ぶ池田の酒造家たちで、参加者が1両ずつ出しあい籤引きで呉春の絵を得る仕組みの「講」を10回にわたって行っており、呉春はこれを通じて制作の機会を得る事ができた。天明2年には蕪村が死去しており、天明8年頃まで続く「池田時代」は呉春にとって蕪村の影響下から自らのスタイルを確立していく大きな転換点となった。
本作が描かれたのは蕪村の死から一年半ほど経った頃である。左隻款記にある「三菓堂」とは蕪村の画室の名で、それを呉春が引き継いだことがわかる。右隻と左隻ではやや画風が異なり、「三菓堂」の款を入れた左隻の断崖や人物の描写により強く蕪村の作風があらわれるのは、それに追随することを意図してのことだろう。いっぽう右隻は俯瞰の構図で、隠れ里のような集落となだらかな山の稜線、遠くに臨む海といった広々とした風景を透明感のある色彩で描く。モチーフは文人画のものであり、のちに呉春が獲得していく写実のタッチもまだ現れていないが、明るく穏やかな画面からは蕪村の描く山水のような濃厚な南画色はあまり感じられない。師・蕪村へのリスペクトと、新たな表現を模索する過渡期の呉春の特徴がよく現れている。
呉春の池田時代の屏風作品としては、東京国立博物館が所蔵する「山水図」六曲一双屏風など数点確認されており、中には京都国立博物館蔵の「柳鷺群禽図屏風」のように重要文化財に指定されているものもある。しかし、本作のように年記によって池田時代の制作が明確になるものは少なく、呉春の作風の変遷を物語る貴重な作品。
なお本作は大正7年、京都美術倶楽部で開催された売立「下京平野氏・某氏其他所蔵品入札」の目録に所載されている。
¥
3000000
-
5000000
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松村 呉春
蕪村写山水図六曲一双屏風
(各)151.0×349.6cm
紙本彩色・六曲一双屏風
(右)甲辰夏日写呉春 天明四年 (1784), (左)写於三菓堂呉春,
甲辰夏日
[literature]
『下京平野氏・某氏其他所蔵品入札』 (大正7年5月17日 京都美術倶楽部) 目録掲載
右隻に「甲辰夏日写呉春」、左隻に「写於三菓堂呉春」と款する六曲一双の屏風。甲辰の年記により天明4年(1784)、呉春33歳の作とわかる。左隻には険しい巌山にかこまれた山道と旅人の姿が、右隻には山あいの閑静な集落にあそぶ文人らの様子が描かれる。
呉春(1752-1811 宝暦二-文化八)は京都で金座の役人を代々継ぐ裕福な家に生まれた。本姓は松村。20歳前後に与謝蕪村の門となり、月渓と号して文人画と俳諧を学ぶ。のち円山応挙との交流を通じて文人画の味わいを残しつつ写実的な作風へと転じ、その軽妙酒脱な画風は京都の民衆におおいに受け入れられ、「四条派」という一派をなした。
本作が描かれる3年前の天明元年、30歳の呉春(松村月渓)は愛妻と父を相次いで亡くす。翌年、大坂の池田に転居したのは、師の蕪村が傷心の呉春を気遣って勧めたためと伝わる。「呉服(くれは)の里」と呼ばれた池田の古称にちなみ「呉春」と改名したのもこの時である。池田時代の呉春の生活を支えたのは蕪村に俳句を学ぶ池田の酒造家たちで、参加者が1両ずつ出しあい籤引きで呉春の絵を得る仕組みの「講」を10回にわたって行っており、呉春はこれを通じて制作の機会を得る事ができた。天明2年には蕪村が死去しており、天明8年頃まで続く「池田時代」は呉春にとって蕪村の影響下から自らのスタイルを確立していく大きな転換点となった。
本作が描かれたのは蕪村の死から一年半ほど経った頃である。左隻款記にある「三菓堂」とは蕪村の画室の名で、それを呉春が引き継いだことがわかる。右隻と左隻ではやや画風が異なり、「三菓堂」の款を入れた左隻の断崖や人物の描写により強く蕪村の作風があらわれるのは、それに追随することを意図してのことだろう。いっぽう右隻は俯瞰の構図で、隠れ里のような集落となだらかな山の稜線、遠くに臨む海といった広々とした風景を透明感のある色彩で描く。モチーフは文人画のものであり、のちに呉春が獲得していく写実のタッチもまだ現れていないが、明るく穏やかな画面からは蕪村の描く山水のような濃厚な南画色はあまり感じられない。師・蕪村へのリスペクトと、新たな表現を模索する過渡期の呉春の特徴がよく現れている。
呉春の池田時代の屏風作品としては、東京国立博物館が所蔵する「山水図」六曲一双屏風など数点確認されており、中には京都国立博物館蔵の「柳鷺群禽図屏風」のように重要文化財に指定されているものもある。しかし、本作のように年記によって池田時代の制作が明確になるものは少なく、呉春の作風の変遷を物語る貴重な作品。
なお本作は大正7年、京都美術倶楽部で開催された売立「下京平野氏・某氏其他所蔵品入札」の目録に所載されている。
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