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LOT 179
柴田 是真
圓窓鍾馗
107.2×40.8cm
絹本彩色・金砂子・軸装
中央左に落款、印
1871年頃
福地源一郎箱書・『柴田是真五十年記念追善會展』列遺作假目錄および出品札付
[展覧会歴]
『柴田是真 五十年記念追善會展』出品 (東京築地・八百善:1940年)
[参考文献]
『特別展 伊藤若冲 生誕300年記念 ゆかいな若冲・めでたい大観 -HAPPYな日本美術-』P40に類似作品 (山種美術館:2016年), 『別冊太陽 柴田是真』P118に類似作品 (平凡社:2009年)
[来歴]
福地源一郎 (東京), 鈴木仙吉家蔵 (東京)
1807年、江戸の両国に生まれ幕末・明治の東京を生きた柴田是真は近世と近代をまたぐ大きな転換期に活躍した作家であるというだけではなく、1873年に開催されたウィーン万博において、世界を魅了する作品を届け、日本の美術を広く世界に知らしめた人物であるといえよう。1890年に帝室技芸員になり、在世時から高い評価を受けていたのにも関わらず、現在の柴田是真は日本国内よりもむしろ海外で「Zeshin」としてより高い評価を受けており、実際に多くの作品が欧米を中心とした海外で所蔵されている。しかしながら、2022年、国立能楽堂資料展示室での「柴田是真と能楽 江戸庶民の視座」が催されると2025年には東京黎明アートルームで特別展「 柴田是真 - 対柳居から世界へ - 」が開催されるなど、柴田是真に対する再評価の兆しが見えだしていることは特筆に値するであろう。
柴田是真はまさに「神童」であり、11歳で印籠蒔絵師の古満寛哉に入門する。通い弟子としてわずか5年で蒔絵を学び、当時の蒔絵が「絵師」「木地師」「塗師」「蒔絵師」など、その制作工程において分業の体制をとっている中、特に他人の下絵によって作品を作ることに違和感を覚えた是真は、16歳で江戸の円山派・鈴木南嶺に師事して画を学び始める。この頃の逸話としては、当時すでに人気の絵師となっていた28歳の浮世絵の名手・歌川国芳が、絵を習い始めてからわずか2年後であり、10歳も年下の18歳の是真が描いた扇子を絵を見て弟子入りを意識し、是真が国芳に画号を与えたというエピソードが残されている。その才能もさることながら、是真の作品制作への探究はとどまることを知らず、24歳の頃には上洛して四条派の岡本豊彦にも師事する。その後、34歳の時に王子稲荷社に奉納した「鬼女図額」(図1参照)で一躍江戸中にその名が知られるようになり、1873年には冒頭でも述べたウィーン万国博覧会に「富士田子浦蒔絵額面」を出品して進歩賞牌を受賞する。さらに1886年には皇居の杉戸絵を描き、1890年には帝室技芸員になるなど、生涯にわたってその能力をいかんなく発揮した人物である。
本作品は昭和15年 (1940年)、柴田是真の三男である梅澤隆眞氏の主催で築地・八百善にて開催された『柴田是真五十年記念追善會展』に出品された作品となっている。会場となった八百善は宝暦年間に創業し江戸一の料理屋とされ、酒井抱一との関りもあり、八百善の紹介された冊子「江戸流行料理通」の表紙には酒井抱一の絵が掲載されているなど伝統的で美術への造詣も深い場所であるが、震災や戦災により現在は鎌倉に場所を移されている。また、展覧会の協賛としては、幼少期から是真の絵画への親しみがあった日本画家の鏑木清方や美術評論家の外狩素心庵が名を連ね、展覧会への作品出品者として山種美術館の設立者であり山崎種二や多くの実業家、政治家の名前がその目録に残されている。本作品は「繪畫 圓窓鍾馗 絹本着色」として記録され、その所有者は鈴木仙吉家となっている。作品に付属する展覧会出品札にも同様の文言が記されており、この『柴田是真五十年記念追善會展』へ出品されたという来歴は、本作品の価値を押し上げるのに一役買っているといえるであろう。
作品の下地に塗られた朱色によってかたどられた円窓から鍾馗が顔を覗かせる。鍾馗は主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神で、長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな眼で何かを睨みつけるという構図がとられ、日本では、厄除けや学業成就に効果があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したり、旗、屏風、掛け軸として飾ったりするという慣習があり、鏑木清方も父の條野採菊が是真の親友であったため、6歳の頃に是真から贈られた円窓鍾馗図を、端午の節句に毎年掛けていたようである。また、鍾馗の図は本作品でいう円窓の手前、頭を抱えて逃げ惑う小鬼と併せて描かれることが多いが、これは中国唐時代の以下の説話によるものであるとされている。
唐の玄宗皇帝が病の床につき、夢の中で現れる鬼に悩まされていた。その夢の中で鍾馗が鬼を退治するのを見る。玄宗皇帝が正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて自殺した。だが高祖皇帝(唐の初代皇帝)が手厚く葬ってくれたので恩に報いるためにやってきた」と告げた。夢から覚めた玄宗皇帝は病が治っていることに気づき、夢で見た鍾馗の姿を絵師に描かせ、疫病除けや受験の神様として定めた。
改めて作品を見てみると、まず目にとまるのは背景の朱色である。この鮮やかな朱色背景によって非常にモダンな印象を与える作品となっているが、この「朱色」は江戸時代頃から鍾馗の図と同様に魔除けや厄除けの力があると信じられており、古くから宮殿や神社仏閣などにもよく使われていた色であり、祝い膳などにも朱色の漆塗りの器が使われることも多い。
鍾馗の顔はいかめしく、長く伸びた爪のある左手で宝剣を握る。円窓の中から外へと飛び出て逃げ惑う小鬼の表情はどこかコミカルな要素をもち、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」(図4参照)を想起させる。小鬼の肩巾(ひれ)にも鮮やかな色彩が使用されており目を引くが、細部をよく見ると鍾馗の髭や小鬼の毛先の描写などは非常に細かく、蒔絵師としての是真の技術力の高さも再確認させられる。また、円窓から出て来た小鬼の背景に金砂子を施すことによって、遠近感が付与され円窓の内と外がはっきりと区別されている点も注目に値するであろう。
是真の作品にはユーモアに溢れ、江戸の「粋」を感じさせる作品が多くあるが、本作品「圓窓鍾馗」はまさにその典型例とも言える優品である。特に「圓窓鍾馗図」は大名から庶民にいたるまで幅広い人気があったため、江戸東京博物館に収められている「粉本 鍾馗鬼図」(図5参照)のような下絵をもとに複数の同手作品が制作されており、そのアイコニックな作風から、前出した「 柴田是真 - 対柳居から世界へ - 」の展覧会チケットやポストカードでも採用されている(図6参照)。
作品の左には「是真」の墨書き落款に「是真」の白文壺型朱印。作品の箱には明治時代の政論家・劇作家・小説家であった福地源一郎氏による箱書がなされている。
是真の絵画表現は漆芸作品の制作に資する目的で取り組まれたものであったが、残された作品は下絵師のそれをはるかに凌駕する作品であり、鑑賞者に常に驚きを与える作品であった。江戸っ子の粋な計らいともいえる表現や職人としての描写力が融合された是真の作品は日本国内だけではなく海外でも既に高い評価を得ており、本作品のような来歴を持つ作品が市場に流通するのは非常に稀なことである。
¥
6000000
-
12000000
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LOT 179
柴田 是真
圓窓鍾馗
107.2×40.8cm
絹本彩色・金砂子・軸装
中央左に落款、印
1871年頃
福地源一郎箱書・『柴田是真五十年記念追善會展』列遺作假目錄および出品札付
[展覧会歴]
『柴田是真 五十年記念追善會展』出品 (東京築地・八百善:1940年)
[参考文献]
『特別展 伊藤若冲 生誕300年記念 ゆかいな若冲・めでたい大観 -HAPPYな日本美術-』P40に類似作品 (山種美術館:2016年), 『別冊太陽 柴田是真』P118に類似作品 (平凡社:2009年)
[来歴]
福地源一郎 (東京), 鈴木仙吉家蔵 (東京)
1807年、江戸の両国に生まれ幕末・明治の東京を生きた柴田是真は近世と近代をまたぐ大きな転換期に活躍した作家であるというだけではなく、1873年に開催されたウィーン万博において、世界を魅了する作品を届け、日本の美術を広く世界に知らしめた人物であるといえよう。1890年に帝室技芸員になり、在世時から高い評価を受けていたのにも関わらず、現在の柴田是真は日本国内よりもむしろ海外で「Zeshin」としてより高い評価を受けており、実際に多くの作品が欧米を中心とした海外で所蔵されている。しかしながら、2022年、国立能楽堂資料展示室での「柴田是真と能楽 江戸庶民の視座」が催されると2025年には東京黎明アートルームで特別展「 柴田是真 - 対柳居から世界へ - 」が開催されるなど、柴田是真に対する再評価の兆しが見えだしていることは特筆に値するであろう。
柴田是真はまさに「神童」であり、11歳で印籠蒔絵師の古満寛哉に入門する。通い弟子としてわずか5年で蒔絵を学び、当時の蒔絵が「絵師」「木地師」「塗師」「蒔絵師」など、その制作工程において分業の体制をとっている中、特に他人の下絵によって作品を作ることに違和感を覚えた是真は、16歳で江戸の円山派・鈴木南嶺に師事して画を学び始める。この頃の逸話としては、当時すでに人気の絵師となっていた28歳の浮世絵の名手・歌川国芳が、絵を習い始めてからわずか2年後であり、10歳も年下の18歳の是真が描いた扇子を絵を見て弟子入りを意識し、是真が国芳に画号を与えたというエピソードが残されている。その才能もさることながら、是真の作品制作への探究はとどまることを知らず、24歳の頃には上洛して四条派の岡本豊彦にも師事する。その後、34歳の時に王子稲荷社に奉納した「鬼女図額」(図1参照)で一躍江戸中にその名が知られるようになり、1873年には冒頭でも述べたウィーン万国博覧会に「富士田子浦蒔絵額面」を出品して進歩賞牌を受賞する。さらに1886年には皇居の杉戸絵を描き、1890年には帝室技芸員になるなど、生涯にわたってその能力をいかんなく発揮した人物である。
本作品は昭和15年 (1940年)、柴田是真の三男である梅澤隆眞氏の主催で築地・八百善にて開催された『柴田是真五十年記念追善會展』に出品された作品となっている。会場となった八百善は宝暦年間に創業し江戸一の料理屋とされ、酒井抱一との関りもあり、八百善の紹介された冊子「江戸流行料理通」の表紙には酒井抱一の絵が掲載されているなど伝統的で美術への造詣も深い場所であるが、震災や戦災により現在は鎌倉に場所を移されている。また、展覧会の協賛としては、幼少期から是真の絵画への親しみがあった日本画家の鏑木清方や美術評論家の外狩素心庵が名を連ね、展覧会への作品出品者として山種美術館の設立者であり山崎種二や多くの実業家、政治家の名前がその目録に残されている。本作品は「繪畫 圓窓鍾馗 絹本着色」として記録され、その所有者は鈴木仙吉家となっている。作品に付属する展覧会出品札にも同様の文言が記されており、この『柴田是真五十年記念追善會展』へ出品されたという来歴は、本作品の価値を押し上げるのに一役買っているといえるであろう。
作品の下地に塗られた朱色によってかたどられた円窓から鍾馗が顔を覗かせる。鍾馗は主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神で、長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな眼で何かを睨みつけるという構図がとられ、日本では、厄除けや学業成就に効果があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したり、旗、屏風、掛け軸として飾ったりするという慣習があり、鏑木清方も父の條野採菊が是真の親友であったため、6歳の頃に是真から贈られた円窓鍾馗図を、端午の節句に毎年掛けていたようである。また、鍾馗の図は本作品でいう円窓の手前、頭を抱えて逃げ惑う小鬼と併せて描かれることが多いが、これは中国唐時代の以下の説話によるものであるとされている。
唐の玄宗皇帝が病の床につき、夢の中で現れる鬼に悩まされていた。その夢の中で鍾馗が鬼を退治するのを見る。玄宗皇帝が正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて自殺した。だが高祖皇帝(唐の初代皇帝)が手厚く葬ってくれたので恩に報いるためにやってきた」と告げた。夢から覚めた玄宗皇帝は病が治っていることに気づき、夢で見た鍾馗の姿を絵師に描かせ、疫病除けや受験の神様として定めた。
改めて作品を見てみると、まず目にとまるのは背景の朱色である。この鮮やかな朱色背景によって非常にモダンな印象を与える作品となっているが、この「朱色」は江戸時代頃から鍾馗の図と同様に魔除けや厄除けの力があると信じられており、古くから宮殿や神社仏閣などにもよく使われていた色であり、祝い膳などにも朱色の漆塗りの器が使われることも多い。
鍾馗の顔はいかめしく、長く伸びた爪のある左手で宝剣を握る。円窓の中から外へと飛び出て逃げ惑う小鬼の表情はどこかコミカルな要素をもち、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」(図4参照)を想起させる。小鬼の肩巾(ひれ)にも鮮やかな色彩が使用されており目を引くが、細部をよく見ると鍾馗の髭や小鬼の毛先の描写などは非常に細かく、蒔絵師としての是真の技術力の高さも再確認させられる。また、円窓から出て来た小鬼の背景に金砂子を施すことによって、遠近感が付与され円窓の内と外がはっきりと区別されている点も注目に値するであろう。
是真の作品にはユーモアに溢れ、江戸の「粋」を感じさせる作品が多くあるが、本作品「圓窓鍾馗」はまさにその典型例とも言える優品である。特に「圓窓鍾馗図」は大名から庶民にいたるまで幅広い人気があったため、江戸東京博物館に収められている「粉本 鍾馗鬼図」(図5参照)のような下絵をもとに複数の同手作品が制作されており、そのアイコニックな作風から、前出した「 柴田是真 - 対柳居から世界へ - 」の展覧会チケットやポストカードでも採用されている(図6参照)。
作品の左には「是真」の墨書き落款に「是真」の白文壺型朱印。作品の箱には明治時代の政論家・劇作家・小説家であった福地源一郎氏による箱書がなされている。
是真の絵画表現は漆芸作品の制作に資する目的で取り組まれたものであったが、残された作品は下絵師のそれをはるかに凌駕する作品であり、鑑賞者に常に驚きを与える作品であった。江戸っ子の粋な計らいともいえる表現や職人としての描写力が融合された是真の作品は日本国内だけではなく海外でも既に高い評価を得ており、本作品のような来歴を持つ作品が市場に流通するのは非常に稀なことである。
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